アフリカ朝アイルランド

ここのところしばらく、アフリカ系の顔グラをヨーロッパに広めるプレイをしていた。

しかしこれがなかなか難しい。1066年シナリオだとアフリカ系のキリスト教徒はヌビア王国、アビシニア王国、アクスム公のエチオピア君主3国。ムスリムだとソンガイとかそのへん。そこから嫁をもらってくるしかない。エチオピア系は早いと開始50年くらいでムスリムに攻め滅ぼされる(150年くらい存続してたこともあったが稀)。独立を失ってもすぐにゲームから消えるわけではないが、ムスリムの家臣として存続するとそのうち改宗してしまい結婚が難しくなる。所領を全部失って他国に放浪の旅にでると確実に断絶する。
自分自身がエチオピア文化に転向すれば、貴族や聖職者の召喚魔法を唱えるとクロい奴がやってくるが、それはなんか違うので使わないことにしている。

アフリカ系とヨーロッパ系、めんどくさいので黒人と白人と呼ぶことにするけど、彼らの結婚によって生まれる子供は規則性があって、黒人かアラブ人のどちらか(一度だけ例外があった気がするが、祖父母までは参照していないと思うたぶん)。黒人とアラブ人の子は全部黒人。アラブ人と白人だとそのどちらかが生まれる。
つまり、どうやら黒が優性に設定されているようだ。そうしないと絶対数の少ない黒人キャラが早々と消えて行くからだろうか。実際ヨーロッパに黒人の血を導入しても、結婚相手はほぼ白人なのであっという間に薄まる。
←のプレイでも4代目でいったん真っ白になっている。
黒人グラを広めるには、自キャラが黒人であることが不可欠。自キャラは出生率にプラス補正があって6人でも7人でも子供が増えていくし、当主の子供は結婚相手としても尊重される。そうして増やした子供をどんどんヨーロッパ君主に結婚させていく(もちろんタイトルの請求権も相手に渡るが…)。
クロい子供優先、と言いたいところだけど気にする余裕なし。生まれたらすぐに婚約させてしまい、年長制か選挙制で次々に当主を変えていくのがいいかもしれない。
子供を嫁がせた記憶が無く、姓も異なる君主が黒人顔だと嬉しくなってしまう。エチオピア人はまずヨーロッパに移住してこないので、その人物はどこかで自分の一族とつながっていることが明らかだから。
あとエチオピア文化だと、肌の色に関係なく、白い隈取のような化粧をするようだ。文化は肌の色よりも継承するのが楽だしエキゾチックな気分になれる。
そんなこんなの理由で顔グラのバリエーションが増えるのがかなり楽しみ。

グルジア=ビザンツ その5

 1233年の図。ムスリムはアナトリアから駆逐されたが、ポーランドの領地が鬱陶しい。

 んでまた、はーんらん。グルジア王国が独立したいんだってさー。

 1237-1240の内戦が終わった。全員降伏するまで(戦勝点100になるまで)戦ったので時間がかかった。捕まえた奴らはほぼ全員目潰しである。

 独立していたモルダウ併合。

モルダウ戦争中の周辺地図。ルーシ、ルテニアは分裂気味。キプチャクハン国も登場して急速に勢力を伸ばしている。

 南のほう。セルジュークは何故かリビアに残っているだけ。ファーティマも小藩主に分裂している。

 モンゴルに占領されないうちにレヴァント地方に侵攻する。

 ル、ルーシが~。ルテニアも~。モンゴルにがっつり囲まれてます。なぜかせめて来ないが…

 せめて来ないのでギリシャの先端にあるムスリムを攻める。

 1274年、またしても独立戦争。

 下ドン伯のたった一つの領地から8万もの軍勢が現れた。なんでよ。即位してからはじめての全軍動員をかけるが、軍勢を集める間に自動敗北の戦勝点-97近くまで達する。先行した直属軍6万のうち、敵主力にぶつけた3万は壊滅。結局なんとか敵主力は破壊できたのだけど、それだけでは戦争が終わらない。占領された領地を奪い返し、反乱国の広大な領地を一つずつ落として行ってちょっとずつ戦勝点を稼ぐ。これが激しくめんどくさい。主力壊滅したんだからもう勝ち目ないだろおまえら。

結局この戦争を終わらせるのに6年もかかった。激しく戦って6年ならいいけど、ほとんどは地味な領地占領に費やされた。不毛なり。あまりに面倒なので、ほんとうは参加者全員の目を潰したかったが白紙和平だけで済ませる。

 終結前にダミアノスは90歳で死去し、70歳の時の息子カイサリオスがあとを継いだ。

おめめぷちゅっと。
「足元よく見な。つまづくなよ」
カイサリオスの優しさが光る。

このあとまた反乱が起きたので嫌気が差して中断中。

グルジア王国その4

ところでここに至って弟の孫がビザンツの皇帝として戴冠していたことに気づく。急遽、息子を後継者から廃して弟の息子(皇帝の父)を後継者に指名。選挙制なのでほかの二人の選挙人に賄賂を送って一人を転向させることに成功する。

これは甥ネルス2世が相続した後の弟(ネルス2世の父で皇帝の祖父)。

 しかしネルス2世の治世は内乱対処にあてられた。また独立運動だよ。

 首謀者は大王の弟の子。つまりいとこ。

そうこうしているうちになんと皇帝である息子がムスリムとの戦いで戦死><;
息子(ネルス2世の孫)が跡を継ぐ。選挙人は国内の人物を後継者に選びたがり、継承権第一位がコロコロ変わって安定しない。試しに別の候補者を投獄してみたが、別の国内の一族が新たな後継候補に選ばれてしまう。が、なんとか運良く孫が第一位の時に相続が起きる。

1215年、グルジア国王ネルス2世は死去し孫のバシレウス・ダミアノスが王国領を相続した。祖父はアイルランド系のカトリックで、孫はギリシャ系の正教徒だ。

ビザンツは南で戦争中だったので状況を整理するためいったん停戦する。

 所領多すぎのため再分配。高齢の曽祖父をチェルソン公に封じる。

 んでまた内乱。アゾフ公が独立を画策。文化がギリシャ系になったので目潰し、去勢が可能。

 ボヘミア王からは王位を取り上げる。目潰し/去勢してしまうと自動的に開放されてしまうのでタイトル剥奪は先にしないといけない。

 この頃の派閥。独立派を潰したあとなのにまた新たに設立されてる。

グルジア王位は相変わらず選挙制で、いちいち次を選ぶのが面倒だ。しかも王国の版図は帝国の北半分もある。そこでカルトリ公にグルジア王位を与える。この場合、ついていく領地はde jureな部分のみ。しかしこのあと反乱を起こされて家臣の一族に奪われていた。更にその後再びカルトリ公が奪い返していた。反乱起きすぎ

ついにイルハン国登場。1227年。

グルジア王国その3

 リャザン公は戴冠してルテニア王国となっていた。

旧ビザンツ領への侵入を試みる。しかし1万以上の傭兵部隊が登場して白紙和平。

その間にクマンとも戦う。ビザンツはもう当てにならず、その代わりに自力で対処できるようになっていた。

ニカイアの藩王国へも攻めこむ。これも撃退されるが…。
このあとポーランドがアナトリアへの聖戦を成功させて食い込んでくる。

1173年時点。ファーティマ朝はだいぶ駆逐された。

 この頃の派閥。独立派がやたらと反乱をこす。割愛しているけど4回ほど内乱が起きている。

5度ほど戦ったクマンの女王。

ついにブルガールも奪い、マップ中央部から 追い出すことに成功。長かったよママン…

同盟政策のために娘を送り込んだハンガリー王。25歳の若さでドイツ軍と戦い戦死してしまった。

 この頃の宗教分布図。テングリがまだだいぶ残っている。カトリックが広まりつつあるのは、宗派を無視してカトリック教国から嫁をもらい続けたためかもしれない。

また独立派が反乱。

 1193年。TYUMENというのが旧クマン王国。カスピ海沿岸のBURKAHが独立し、北部はウラディミール公とルーシ王国に制圧されて風前の灯。

 クリミア半島先端がビザンツから独立していたので侵攻。

 いつの間にか大王の称号を得ていた。天才持ちなのでかなり見栄えがいいが、天才がなかったら凡人です。

クリミア半島に唯一残っていた独立勢力はルーシ系なのでなかなか攻められなかったが、臣従を拒否したのでついでに征服してしまう。

グルジア王国その2

クマンに攻められたわけだがいつもどおりビザンツの助けを借りて撃退し、ついでに敵の若き王を戦傷死させる。ガッハガハガハ。

 そのご分裂状態になったクマンの一部、アゾフ伯を攻める。もちろんこちらには助太刀がいる。

さらに西進。クリミア公も南半分を併合。

1099年、この頃の領土。クマン領はだいぶ削れたように見えるが、東のほうにかなり広く残っていてまだ自力では厳しい雰囲気。

このあとギリシャもファーティマ朝に奪われ衰退が始まる帝国。

 北ではルーシが勢力を伸長している。

 代替わりしたのでビザンツと婚姻。衰退しつつあるが彼らは我が国の生命線だ。

宗教分布図。  クリミア周辺の領地はテングリ教かな。異教徒による征服ペナルティは長いので転向作業をすすめる。

 ビザンツが分裂したセルジューク朝系国と戦争を開始したので負けずとこちらも侵攻。序盤に戦ったイスラム諸侯の最後の領土だ。

1104年、初の内乱。カルトリ公1人だが…

大部分の新領土はまだペナルティが解けていないので動員できない。戦力は五分に近く、内乱の尻拭いまでビザンツに任せてしまう。

 公位を奪いカハティ伯に与える。今までは牢獄につないでおくだけだったけど厳しく対処することにしよう。

 
 王権はミディアムへ引き上げ。

 その頃北では…ルーシがたいそう権勢を誇っていた。

 そのちょっと南(我が国と領土が接している)には同族のリャザン公国。なので攻めにくい。

 この時代の派閥。95%近い派閥があるんですが…((((;゚Д゚))))

 そんなこんなで北にも西にもいけなくなったので少し東へ。サライ周辺を併合。

 ルーシとも婚姻。子供を残さずに死んだりするので同盟を継続するのは意外と難しい。

 1119年、なんといったん反乱で公位をうばったのに、反乱を起こして公位を再奪取しおった!

 この頃からやたらと独立派の反乱が増える。25%くらいでも反乱するんだよなぁ。

 1122年、改宗がすんだので、ホールディングスが5つあるクリミアに遷都。

 ビザンツは相変わらずファーティマと戦っていた。
 

 カルトリ公(息子)再び反乱とか

 クマンの女王と戦ったり、

しているうちに気づいたらアナトリアの大部分がファーティマに支配下になっていた。領地接してるし!あやうし!グルジア王国((((;゚Д゚))))

グルジア王国その1

アステカDLCを前にして、1度くらいはモンゴルとやりあっておくかと東側の国ではじめてみる。

 グルジアは黒海に面しており、南西のビザンツとは同盟関係にある。南東はムスリムの藩王国。北のアラニアは正教で友好。更にその北には大国クマンがどど~んと。

 継承法は分割法なのでまず王権を一段回引き上げる。

 同族の隣国カヘティ伯に臣従を要求して併合した後、イスラム国のカルトリへ侵攻。

セルジューク朝と戦争中のビザンツから参戦要請が来る。どうせ役に立てないが承諾。
そして二国が戦っている間に南のドゥイ へ侵攻。

 1071年に併合完了。

 1074年、クマンから宣戦される((((;゚Д゚))))
すぐにビザンツに援軍要請して、ほぼ彼らの活躍で撃退!

 アラニアは南のイスラム国と北のクマンに攻められて削られつつあるので、便乗で攻めこむ。ごめんねごめんね。

 ガハッ(;゚Д゚)

 1082年、アラマン公国は三国によって分割され消滅した。チーーン。そういえばいつもセルジュークに負けるはずのビザンツが今回は勝っている。

 1083年、領土を接していたセルジューク朝から攻められる((((;゚Д゚)))。もちろんビザンツに助けを求め…

 彼らがガチで戦っている間に北東のイスラム国に侵攻する。先に侵攻するとセルジューク朝だけ参戦してきてビザンツは加わってくれない恐れがあった。

 セルジューク軍はビザンツに破れて少し戦勝点が入ったので白紙和平。1088年に領地一個残して併合。

 当代がだいぶ高齢になっていたので、戦後すぐに選挙制に変更。

現在の領地はこんな感じ。

 1090年の時点で気づいたらビザンツの中心部がファーティマ朝に変わっていた((((;゚Д゚))))いつの…まに…

クマンに再び攻められる。壊滅状態のビザンツに救援を求めると快く引き受けてくれた。

アビシニア王国 その3(おわり)

 デスタ1世が死去していとこの子かなんだか忘れたけど、ンヤラ1世が即位。しかし即位直後に反乱を起こされる。

勝ち目無さそうなのですぐ投降。すっかり忘れていたのだがアビシニア王位以外にヌビア王位も持っていて、ヌビア王位だけが残った。新しいアビシニアの女王アラワルド1世。異名が「ジェントル」なのは納得行かない。

そのため王国は分裂。なんてこったい。しかも自勢力外の一族はあるていど血縁関係が近くないと被選挙人として候補に出ない。アラワルドは遠縁なので、選挙で王国再統一を狙ったが無理なことが判明。やけくそで年長相続制にするが…

んで予想はしてたけどイルハン国に攻められる。もうすでにエジプトもイルハン国に征服されている。ンヤラ1世が47歳で死去して次の時代。1283年。

すべてを奪われヌビアプロヴィンス一国…
壊滅的な戦闘は避けていたので5000人の直属軍はほぼ残っている。しかし補給に月30 G以上かかり、とてもプロヴィンス一国では養えない。

セレン1世に連なる家系なのだけど…。

 アビシニア王国はアクスムの反乱が起きて内戦状態の間にイルハン国に攻められる。

反乱中のアクスムとゴンダールだけが残った。このアクスム家は奇遇にも、かつてのヌビア王Solomonid家だ。序盤でアクスムを征服したあと、気まぐれにプロヴィンス一個だけ与えて存続させていた。

アクスムの滅亡を見ずに投了。イルハン国の王権が絶対的で、対外戦争もできなさそうだったから。

アビシニア王国をプレイした感想

  • 接している勢力が少なく、プロヴィンス数も適度なため初心者がプレイ感を得るのにいいかも。
  • 土地は意外と痩せていない。アデンとか奪えれば。それでもエジプトや中東の繁栄っぷりと比べたらしょぼいが…。
  • 土地が広いのか、地形の問題か、軍の移動に時間が掛かってめんどくさい。しかも紅海、ペルシャ湾側では船が一切使えない。
  • (分裂状態にない)ファーティマ朝かセルジューク朝から攻められると極めて厳しい。軍備増強していても倍以上の数で攻められた。こちらが傭兵を雇えないのは宗教または文化のためか。改宗したら雇えるようになるんだろうか。
  • 固有の直属軍は弱い。固有の文化施設によって多少は強化できそうだが。文化施設は他文化にプロヴィンスを奪われると破壊される模様。前線では建てないほうが良い。
  • 直属軍は領土が減ってマンパワーが減っても維持される。けど領土が減りすぎ収入が減れば、補充が難しくなる。
  • 生まれの卑しい(Lowborn)人物がたくさん仕官してくる。文化的に孤立しているため、他国から人材が流れてこない(ただ初期の家臣に繁殖させるよりはLowbornとして沸く人物のほうが優秀だったり…)。
  • やっぱりビザンティンは強いです。

アビシニア王国 その2

大帝タイエ1世のあとを継いだ美人なセレン1世のお話から。

 このころ(1193年)の勢力図。ファーティマ朝はラーティフ朝に置き換わっている。現在のヨルダンあたりにあるユーシフ朝もおそらくファーティマ朝系列。セルジューク朝からはホルムズ太守が独立しているがセルジューク家の一族なので同盟関係にあり攻められない。

んでいきなりだけどセレン1世は34歳で死去。いとこのケス1世が即位。セレン1世から三代女王が続くが選挙制なので全員有能で、女性の評価ペナルティもほとんど問題にならない。

1210年にケス1世が死去し、セレンの末娘デスタ1世が即位。繰り返すけど1世といっても二世は現れておりません^^;

基本的に平和な時代が続き、することといえば嫁婿選びと死亡した大臣の後継人選び。あと金が溜まったら軍事施設を立てる。この頃のマンパワーは9000くらいだったかな。直属軍は3500人ほどになる。

 1236年、ファーティマ朝(に戻っていた)の内乱がおき、リビアに出兵。久々に領土拡張に成功した。

 この頃の勢力図。ファーティマ朝は分裂状態。セルジューク朝はイルハン国にほぼ制圧され、幾つかの小勢力として存続しているのみ。

 カイロのすぐそばまで制圧に成功。しかし分裂している割には敵傭兵のために併合が思うように進まない。

 この頃の西ヨーロッパ。カスティリヤがモロッコを、神聖ローマ帝国が北アフリカを制圧。ビザンティンはまたイタリアやクロアチアを抑えている。

 アラビア半島東端に残ったセルジューク朝の残党を併合。

 アビシニア王の最大版図(1263年)。

アビシニア王国 その1

LoRの最初のプレイでアビシニア王国でプレイして面白そうだったので改めてトライしてみる。そう言えば王国クラスでまともにプレイするのは初めてかもしれない。

 見難いけどアビシニアはアフリカマップの南端。北は同じMiaphysiteを奉ずるアクスム国、東はムスリムのShirazid家。なんて読むんだろ。対岸のRassid家もムスリムだ。

宗教がMiaphysiteだからか、傭兵を雇えない。しょうがないので同じく雇えないであろうアクスムを攻める。

何度かプレイした感じでは、ムスリム二国の動向によって攻める順番を変えるほうが良さげ。この時は先にアクスムを併合した。アフリカの角へ侵攻するも撃退される。

その後アラビア半島に進出。タイズとアデンの一部はどういう経緯か忘れたけどセルジューク家に渡っていた。その後アフリカの角へ再侵攻。この時点ですでに1134年。

二回に分けて攻めたんだったかな。ようやく勝利。1139年。

 その少し前の宗教分布図。異端であるMonophysiteが広まりつつある。異端審問して転向させてゆくが撲滅できなかった。カトリックがあるのはなぜだろ。そっちの方から嫁をもらったのかも。アクスムの北、ヌビアはかなり早い時期にファーティマ朝に併合される。

1143年にタジズを征服。ただアデンの中の土地一個が残ったまま。最終的に奪うことができなかった。北はファーティマ朝、東はセルジューク朝に接してひとまず領土拡張は終了。この時の王は「偉大な」の称号を獲得した。

たまにセルジューク朝の内紛に乗じて攻めてみたりするがあちらは傭兵を雇えるしなかなかうまく行かない。

 何度か独立を求める内戦が起きた。1149年。公爵位を積極的に与えると、公爵二人くらいに派閥で連合されると面倒な事になる(ぜんぶで4つくらいしかないから)。かといって伯を多数直臣にしておくと家臣団の勢力は分散されるが、派閥の動きが掴みづらくなって面倒。王権はリミテッドでも公爵同士の戦争は起きなかったけど、動員兵力を考えてミディアムにする。

大帝タイエ1世の娘セレンが美人かつ超優秀。顔グラはアラブ系だがアフリカ系の化粧している。相続法は選挙制なのですぐ後継者に選んだ。

 ファーティマ朝が退廃蓄積で転覆。その後の混乱に乗じてプロヴィンスを一個だけ奪う。

 タイエ大帝死去。セレン1世即位。1世といっても2世は現れなかったけど…

北を伺うがうまくいかない。

直属軍を試してみた

Retinueシステムがわかりづらかったのでメモ。面倒なので直属軍システムと呼ぶことにしよう。この直属軍/Retinueを創設するには、まずキャパシティを確保しないとならない。上のポップアップ表示の真ん中辺りにあるRetinue Cap:1027というのがそれ。

このキャパシティは、下段に表示されているように、領邦全体の兵数に”軍事的組織化”のテクノロジーの領邦内の平均値を(そのままかどうかわからないが)掛けたもののようだ。上ではテクノロジーの平均が1.3なので総兵力7905のうち13%、1027人がキャパシティ。

キャパシティは家臣の評価で増減しない。直轄地を封臣にあてがっても減らない。軍事施設を立てたり領土を増やせば増える。家臣の反乱が起きればそのぶん一時的に減少するが、キャパシティが不足しても創設済みの部隊が解散されたりはしない模様。

直属軍のタイプは5種類あって、それぞれ創設するのに必要なキャパシティが異なる。おそらく4つは全文化共通で、ひとつは文化固有。ビザンティンの場合、必要キャパシティは最も少ないので600人、最大で1600人かな。上のポップアップはカタフラクト部隊になっている。キャパシティを超えない範囲でなら複数の部隊を自由に創設できる。

どのタイプを選んでも兵数は一部隊500人。重装歩兵一人を賄うために人員2名必要、など兵科によって違いがあるため、兵科構成によって必要キャパシティも異なる。創設コストは30~120程度。維持費はかからないが人員を補充するあいだだけコストがかかる。カタフラクト部隊だと月あたり3.6。多分数ヶ月で満員になったと思うので、補充費は10前後か。非常に高価という事前情報だったが、それほどでもないようだ。

じゃあ直属軍システムはゲームバランスを変えるようなものなのかというと、そんな感じはほとんどしない。

ゲーム開始から130年くらい経過して、10プロヴィンス(うち直轄地5)のアテナイ公のキャパシティが5000ちょっとだった。4部隊運用して2000人。これは軍事施設を優先して立てた首都プロヴィンスと同じか少し少ないくらい。安い傭兵が1500人だからそれよりわずかに多い。同じ強さとは限らないけど。まあ、中盤以降は農民反乱を鎮圧するのに使えて便利かな。

ちなみに直属軍はそれが含まれた軍団を解散しても残る。直属軍だけを選んで解散すると消滅する。一応注意のメッセージは出るがわかりにくく、どの部隊が直轄軍なのか明示されないので何度も間違って解散してしまった。

さてアテナイ公の続き。

宦官のキンキンに裏切られたアントニオス1世は30代の若さで死亡し、生まれたばかりの長女のエウファミアが0歳で跡を継いだ。翌年忘れ形見の弟が生まれた。

ところでエウファミアの母親はたまたまアカイア公の妹だった。おじであるアカイア公はのちにキプロス公位を継承したのだが、反乱戦争に身を投じて敗北し目を潰されていた。しかもその後、地元の伯にアカイア公位を簒奪されていた。ふんだり蹴ったり。

そこで母親をアカイア公にするために出兵。

 ギリシャ半島の付け根で決戦し勝利。

 うまいこと母アレクシアをアカイア公につける。がよく見ると後継者には生まれたばかりの弟が指名されてるじゃないか…。

 成人したエウファミア。なかなか美人だが間違って結婚してしまった。すぐに離婚して弟に継がせるよう画策する。といっても帝国の権威が低迷していて選挙制か分割制しか選べない。

しばらく後のこと、捕虜を片っぱしから去勢してた女帝に対する反乱が起きる。アテナイ公は味方しなかったが、アカイア公たる母は反乱に参加。ぼーっと見てたら育成中の直轄軍を粉砕される。ちょうど通り道だったのね…

帝位を奪われたアンチパトラ。しっかり目を潰されています。怖いよ。これが1167年。
しかし一代で東にも西にも領土を伸ばした女傑なだけあって、帝国各地に領土をもつ最大勢力。そんなアンチパトラが帝権の引き下げを狙った派閥を開始。すかさず参加。

何年後か忘れたけど、見事に成功!

 1181年のアテナイ公勢力図。この他にもう一つ領地がある。

1184年、なんと北に遠征に行った弟が戦傷死。甥があとを継いだ。

 その頃の文化分布図。アナトリア中部はゲーム開始直後にファーティマ朝に奪われたためかエジプト化している。。

 同じ頃の中央ヨーロッパ。クロアチア王国とシチリア王国南部を併合し、ドイツ内乱に乗じてケルンテンも征服。別のプレイでも同じくらい伸びていた。やはりビザンティンの専用CBが効きすぎているように思う。

甥のアカイア公も若くして死に、エウファミアが60歳余で没するまでに4代も世代が変わっていた。しかも選挙制では未成年を後継者に選べないという…(たぶん実子以外)。

このあたりで止めて次はエチオピアのアビシニア王家へ。